一歩ずつ学ぶ黙想の祈り, 第1課. 読む 詩篇 1:1-3. 静まって神に近づきたいのに、座るとすぐ心がそれる。黙想で何を思えばよいかも分からない
中心聖句:詩篇 1:1-3
黙想とは、頭を空っぽにすることでも、特別な声を待つことでもありません。神の言葉を口と心に置き、繰り返し唱え、ゆっくり思い巡らすことです。詩篇第一篇によれば、幸いな人は主のおきてを喜び、昼も夜もそれを思い、流れのほとりに植えられた木のようです。気が散るのは自然なことです。心をその一節へ戻すこと自体が、神に近づく歩みです。一節、五分からなら、だれでも始められます。
多くの人が、こんな決心をしたことがあります。「明日は三十分早く起きて、静かに神に近づこう」。ところが翌日、本当に座ってみると、一分目には昨夜返していないメッセージを思い出し、三分目には今日すべきことを考え始め、五分目にはスマートフォンを見ています。何度か続くと、「たぶん自分には向いていない」と結論づけてしまいます。
また、「黙想」と聞いて、頭を空っぽにし、座って何かの声や映像が現れるのを待つことだと思う人もいます。何度試しても何も起こらないので、これは一部の人だけにできることだと思い、もう試せなくなります。
聖書の黙想は、そのどちらでもありません。詩篇第一篇は冒頭で、幸いな人について「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」(詩篇 1:2)と語ります。「思う」と訳されたヘブライ語には、低い声で唱える、つぶやく、思い巡らすという意味があります。空っぽにするのではなく、繰り返し唱え、ゆっくり味わうのです。ヨシュアが民を率いてカナンに入ろうとしたとき、神が彼に語られたのも同じことでした。
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。(ヨシュア 1:8)
口で唱え、心で思い、足で行います。ですから黙想は、私たちの感覚からではなく、神がすでに語られた言葉から始まります。ここには大切な境界があります。私たちが繰り返し思い巡らすのは、神が聖書ですでに明らかにされたことです。座って新しい啓示を待つのではありません。静かなときに心に浮かんだ考えは、その箇所そのもの、文脈、そして聖書のほかの箇所と照らし合わせます。
詩篇第一篇は一つの情景を描きます。「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまない」(詩篇 1:3)。木は毎日力を振り絞って水を吸う必要がありません。根が水辺にあるからです。人も同じです。時がたつうちに御言葉が心に根を下ろし、何かに出会ったとき自然に浮かんできます。ここで二つの言葉に立ち止まってみましょう。「植えられた」――木は自分で水辺まで歩いて行ったのではなく、そこに植えられました。「時が来ると」――毎日実が見えるわけではありません。
その前の節も、ゆっくり読む価値があります。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである」(詩篇 1:1)。人はたいてい一歩で道を外れるのではありません。まず耳を傾け、そこに立ち止まり、やがて座り込みます。この滑り落ちる流れを止めるのは、歯を食いしばる力ではなく、心にもっと喜ばしいものがあることです。
実際の方法はとても素朴です。一節を選び、ゆっくり二、三回声に出して読みます。一つの言葉に立ち止まり、「この言葉は神がどのようなお方だと語っているだろう」と問い、次に「それでは、今の私はどうだろう」と問います。最後に、その言葉を用いて神に語りかけます。五分でも十分です。気が散ったら、自分を責めずに心をその一節へ戻します。心を戻すその瞬間自体が、神に近づく歩みなのです。静かな時間に特別な感覚がなくても、神がおられないという意味ではありません。
ですから、黙想は霊的に熟練した人だけの特技ではありません。今日から始められる小さなことです。一節、数分、そして神の言葉によって少しずつ変えられたいと願う心があればよいのです。
1. 「思う」。 1:2 の「思う」に当たるヘブライ語 הָגָה(hagah)には、低い声で唱える、つぶやく、思い巡らすという意味があります。ゆっくりかむことにたとえると分かりやすいのですが、「かむ」は理解を助ける比喩であって、この語そのものの意味ではありません。黙想は頭を空っぽにすることではなく、一つの言葉を繰り返し唱え、考え、味わうことです。
2. 三つの動作は、一つずつ深まります。 はかりごとに「歩む」、道に「立つ」、座に「すわる」と、しだいに近づき、そこに腰を据えていきます。詩人は人を不安にさせたいのではなく、心がとどまる場所に応じて、人は少しずつそのような者になっていくと注意を促しています。これは詩の並行表現でもあるため、だれもが道を外れるとき必ず通る三段階だと説明する必要はありません。
3. 「植えられた」。 自分で水を探した野生の木ではなく、水の流れのほとりに置かれ、絶えず養われる木です。だれが木を植えたかは書かれていません。注目すべきなのは、養いがどこから来るかです。だからこそ、いつも神の言葉のそばにとどまります。
4. 「時が来ると実を結び」。 実には季節があります。その日に何かを感じたかどうかで、実りを判断する必要はありません。神の言葉は、後になって別の状況の中で思い起こされることがよくあります。
5. 「皆栄える」と「勝利を得る」。 詩篇 1:3 は知恵の詩で、神の教えに根を下ろす人の揺るがなさと実りを描いています。ヨシュア 1:8 は、民を率いてカナンへ入る務めを神がヨシュアに託されたときの言葉です。どちらも「聖書を読めば何事も思いどおりになる」という公式ではなく、すべての計画の成功を保証するものでもありません。
アイスブレイク:歌詞の一節、昔からの言い回し、家族がよく口にした言葉など、覚えようとしなくても覚えていて、長い時間がたってもふと浮かんでくる言葉はありますか。(初めて参加する方も話せます)
リーダーへのヒント:気軽に話してください。本当に心に残る言葉は、何度も聞き、何度も口にしたものであることが多いと分かります。この問いが「昼も夜も思う」ことへの導入になります。
この課の振り返り(リーダーが読みます。約1分。予習していない人のためです)
この課で読むのは詩篇第一篇1節から3節です。詩人は、幸いな人は悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらず、ただ主のおきてを喜び、昼も夜もそのおきてを思うと語ります。その人は流れのほとりに植えられた木のようで、時が来ると実を結び、葉もしぼまず、そのなすところは皆栄えます。関連箇所はヨシュア記1章8節です。この律法の書を口から離さず、昼も夜もそれを思い、そこにしるされたことを守り行うよう命じられています。今日は一緒に、「静かに神に近づきたいのに、座るとすぐ気が散るとき、黙想をどのように始めればよいか」について分かち合います。
1. 1節を読みます。詩人はどの三つの動作を使っていますか。それぞれの動作には、どのような違いがありますか。
リーダーへのヒント:悪しき者のはかりごとに歩むこと、罪びとの道に立つこと、あざける者の座にすわることです。「共に歩く」ことから「立ち止まる」こと、そして「座って腰を据える」ことへ、一つずつ深まります。詩人が先に三つの「しない」を語り、次に一つの「ただ」を語っていることにも目を向けられます。
2. 2節を読みます。幸いな人は神の言葉にどのような態度を取りますか。「昼も夜もそのおきてを思う」とは、どのような姿でしょうか。
リーダーへのヒント:無理にではなく、喜びます。昼も夜も思うとは、繰り返し唱え、いつも思い起こすことです。この語には、原語で低い声で唱える、つぶやくという意味があります。頭を空っぽにすることではありません。
3. 3節とヨシュア 1:8 を読みます。詩人はそのような人を何にたとえていますか。ヨシュア記の一節には、さらにどの二つのことが加えられていますか。
リーダーへのヒント:流れのほとりに植えられ、時が来ると実を結び、葉もしぼまない木です。ヨシュア 1:8 には、「口から離すことなく」(口に出すこと)と、「守って行う」(そのとおりに行うこと)が加えられています。
4. この二つの箇所から見ると、聖書の「黙想」とは何でしょうか。「頭を空っぽにする」「何かの声を待つ」ことと、どのように違いますか。
リーダーへのヒント:この課の中心となる問いです。十分に時間を取ってください。黙想とは、神がすでに語られた言葉を繰り返し唱え、ゆっくり思い巡らし、それを心に入れ、実際の歩みに結びつけることです。頭を空っぽにすることでも、新しい啓示を待つことでもありません。静かなときに浮かぶ考えは、御言葉と文脈に照らして確かめます。これまで思っていた黙想と何が違うかを、皆に尋ねてもよいでしょう。
5.(時間に余裕がある場合)「流れのほとりに植えられた」と「時が来ると実を結ぶ」という二つの言葉は、黙想の実践について何を教えてくれますか。
リーダーへのヒント:植えられた――木は水辺に置かれ、養いはその流れから来ます。時が来ると――実りはその日に見えるとは限りません。どちらも、「今日黙想したなら、今日何かを感じなければならない」という期待を手放させてくれます。
6. 座るとすぐ気が散るという経験は、多くの人にあります。気が散ったら、どうすればよいでしょうか。なぜそれは失敗ではないのでしょうか。
リーダーへのヒント:自分を責めず、最初からやり直さず、心をその一節へ戻せばよいのです。心がほかへ行くのは人の常です。戻すたびに、もう一度神へ向き直っています。スマートフォンを遠くに置く、先に声に出して読む、紙とペンを手元に置いて雑念を書き留めるなど、具体的な工夫についても話せます。
7. 静かに黙想したことはありますか。最も難しいのは、時間がないこと、じっとしていられないこと、何を考えればよいか分からないこと、それとも何も感じなければ無駄だと思うことでしょうか。(初めて参加する方も話せます)
リーダーへのヒント:一人一、二言で話し、評価しません。リーダーが先に自分の難しさを話すと、自分だけができないと思わずに済みます。
8. 今週、どの聖句を、いつ、どれくらいの時間、黙想することから始めたいですか。
リーダーへのヒント:具体的であるほどよいでしょう。どの一節か、朝か寝る前か、五分か十分か、どこでするかを考えます。一節で十分です。一週間ずっと同じ一節でもかまいません。このあとの行動リストも、それに沿って選びます。
この課では、その場で一度行います。リーダーが詩篇 1:2-3 をゆっくり二回読み、皆にも一回一緒に読んでもらいます。それから五分間静かにし、それぞれが一つの言葉(たとえば「よろこび」「昼も夜も」「植えられた」「時が来ると」)に立ち止まります。そして心の中で繰り返し考えます。この言葉は、神がどのようなお方だと語っているだろう。今の私はどうだろう。途中で気が散ったら、心をその一節へ戻します。五分たったら、希望する方はどの言葉に立ち止まったかを一言だけ話します。長く説明する必要はありません。その後、希望する方は一言か二言祈りましょう。神が御言葉を私たちに与えてくださったことを感謝し、私たちを御言葉のほとりに植えてくださるよう願います。声に出したくない方は、黙って祈ることも祈りです。初めて参加する方は静かに聞いているだけでよく、祈ったり信仰を表明したりする必要はまったくありません。最後に、リーダーが皆のために感謝し、とりなして祈ります。祈りの課題はグループ内にとどめ、デリケートな内容はアプリやグループチャットに書きません。後で支援する必要がある場合は、リーダーが本人の同意を得て、必要な一、二文だけを個別に記録します。
次のように始めることができます(祈りの方向):
天の父よ、あなたが先に語り、御言葉を私たちの手に与えてくださったことを感謝します。私たちの心はすぐにさまよい、座ると多くのことに引かれてしまいます。感覚にも、自分の意志で耐えることにも頼らず、ただあなたの言葉を口と心に置き、繰り返し思うことができるよう助けてください。いつもあなたの言葉に根を下ろし、あなたの時に実を結ばせてください。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
祈りのあと、下の項目から一つを選び、今週行ってみましょう。一つで十分です。すぐに選べなくてもかまいません。
記録も報告も必要ありません。よければ次の集まりで話してください。できなかった場合は、何が妨げになったかを祈りに持っていきましょう。
ヨハネ 3:16-21を扱う「一つの聖句を心に置き、ゆっくり思い巡らす」の課、または「聖書を読み、神のみこころを知る」シリーズの、詩篇 1篇を扱う「長く続けられる聖書通読の習慣」の課を選ぶことができます。