イエスのリーダーシップ――イエスにどう従うか, 第3課. 読む マルコによる福音書 8:31-38. イエスが与える平安は欲しくても、将来、関係、生活様式に触れてほしくない
中心聖句:マルコによる福音書 8:31-38
イエスが初めて十字架についてはっきり語られた時、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめました。私たちも同じように、イエスが与える平安は欲しくても、将来、人間関係、生活のあり方に触れてほしくないと思うことがあります。しかしイエスは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われました。代価は、従うことに後から付け足される条件ではなく、従うことそのものに含まれています。
主を信じてしばらく歩むと、多くの人が分かれ道に立ちます。それまでの歩みには喜びがありました。祈りが聞かれ、心に平安が与えられ、温かな仲間に出会いました。しかし歩みを続けるうちに、具体的な何かが差し出すよう求められます。地位、人間関係、生活のあり方、お金、長年の習慣かもしれません。その時、あることが明らかになります。私たちは本当に、イエスに主となっていただきたいのでしょうか。
マルコによる福音書8章の出来事は、まさにこの分かれ道で起こりました。直前にペテロは「あなたこそキリストです」と告白したばかりです。ところが続いて、「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ」ました(マルコ 8:31)。マルコはさらに、「しかもあからさまに、この事を話された」(マルコ 8:32)と重い一言を加えています。ほのめかしたのでも、たとえで語ったのでもなく、はっきり説明されたのです。
するとペテロは、イエスを「わきへ引き寄せて、いさめはじめ」ました(マルコ 8:32)。ペテロが具体的に何を言ったのかは記されていません。イエスの答えから、問題はその向きにあったと分かります。
サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マルコ 8:33)
耳をふさぎたくなるほど厳しい言葉です。注目したいのは、イエスが振り返り、弟子たちを見ながらペテロをしかったことです。この言葉は弟子たちにも聞かせるためのものでした。イエスが群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せるのは、その次の節です。ペテロが何を言い、どんな動機でいさめたのかは書かれていません。イエスが指摘されたのは、その方向です。十字架を避けるメシヤ像は、まさに誘惑の声なのです。
続いてイエスは、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せます。つまり、次の言葉は十二人だけに向けられたものではありません。
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(マルコ 8:34)
「自分を捨てる」とは、自分そのものを嫌い、否定することではありません。自分をすべての決定の中心に置くのをやめることです。 「自分の十字架を負う」という言葉は、当時の人には非常に具体的な光景を思い起こさせました。死刑を宣告された人が、自分の処刑道具を背負って刑場へ歩いていく光景です。現実の光景を用いた言葉であり、その重さを軽くすることはできません。
続く言葉は、損得を量るような言い方です。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(マルコ 8:35)そして二つの問いが続きます。「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マルコ 8:36-37)この二つの問いは、命の究極的な価値を語っています。 この世の命を守りながら本当の命を失うなら、結局何の益にもなりません。イエスと福音のために命を手放す人は、イエスから命を受けます。これはこの世での見返りを保証する言葉ではなく、復活の主への信頼です。
ルカによる福音書9章は、道で出会った三人を通して、代価をさらに日常的な言葉で描きます。最初の人は「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」と言い、イエスは「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(ルカ 9:58)と答えられました。二人目は「まず、父を葬りに行かせてください」(ルカ 9:59)と言い、三人目は「まず家の者に別れを言いに行かせてください」(ルカ 9:61)と言いました。どちらももっともらしく聞こえるところに難しさがあります。この二人がそれぞれどのような家庭事情に置かれていたかについては、解釈が分かれます。しかしイエスの鋭い答えが共通して示すのは、神の国の招きを、一見もっともらしい理由でいつまでも先送りしてはならないということです。もちろん、親孝行や家族の絆を軽んじてよいという許可ではありません。最後の一言がこの段落を締めくくります。「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」(ルカ 9:62)。
誤解を避けるため、二つのことを明確にしておきます。第一に、十字架を負うことは、あらゆる苦しみに耐えることではありません。 この言葉を使って、家庭内暴力を受ける人に耐えるよう求めたり、抑圧される人に沈黙を迫ったりするなら、それは聖書の誤用です。家庭で暴力を受けている時、病気で治療が必要な時、侵害を受けている時には、離れ、受診し、警察に届けるべきです。それは信仰が足りないということではありません。第二に、この箇所は死で終わりません。 マルコ8:31では「殺され」の後に「三日の後によみがえる」と続き、8:35では命を失う者が「それを救う」と続きます。
ですから、この課の目的は人を怖がらせ、従う道から遠ざけることではありません。明らかにしたいのは、イエスに従うとは、自分自身と、自分で決める権利をともに主へ渡すことだという点です。そしてそれをお渡しする相手は、まず私たちのために命を与えてくださった主です。
1. 「しかもあからさまに、この事を話された」(32節)。 受難と復活は隠された暗号ではありません。マルコはわざわざこの一言を記しました。
2. イエスは「振り返って、弟子たちを見ながら」ペテロをしかりました。 この言葉は弟子たちにも聞かせるためのものでした。イエスが群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せるのは、次の節です。
3. 「サタンよ、引きさがれ」は、向きの問題を指摘しています。 ペテロが何を言い、どのような動機でいさめたかは書かれていません。イエスが指摘されたのは、神のことを思わず、人のことを思っているという向きです。
4. 34節は「群衆を弟子たちと一緒に」呼び寄せて語られました。 自分を捨て、十字架を負うことは、一部の霊的なエリートだけが進む上級課程ではなく、従う者すべての歩みです。
5. 35-37節は、二つの問いによって命の価値を語ります。 この世の命を守りながら本当の命を失うなら、結局何の益にもなりません。イエスと福音のために手放した人は、イエスから命を受けます。これはこの世での見返りを保証する言葉ではありません。
6. ルカ9章の三人の話は、招きの切迫性を共通して示します。 後の二人はどちらも「まず……させてください」と言いました。それぞれの家庭事情については解釈が分かれます。父を葬ることや家族に別れを告げること自体が悪いのではありません。問われているのは、神の国の招きを、一見もっともらしい理由でいつまでも先送りしないことです。
7. この箇所は死で終わりません。 31節の「殺され」の後には「三日の後によみがえる」と続き、35節の命を失う者には「それを救う」と続きます。
初めに一言(リーダーが読み上げます)
グループで話したことを、外で言い広めることはしません。ただし、例外があります。現在進行中の被害、子どもや弱い立場の人の安全、または誰かが今すぐ自分や他人を傷つける危険がある場合、リーダーは完全な秘密を約束できません。通常はまず、できる限り本人と相談し、実際に助けられる人に必要な情報だけを伝えます。子どもや自分を守れない人が関わる場合、または差し迫った危険がある場合は、本人の同意を前提とせず、状況に応じて牧師、資格を持つ専門家、現地の公安/警察、救急または医療機関に連絡します。差し迫った危険がある時はその場で助けを求め、本人を一人にしないでください。
ウォームアップ:あなたが本当に欲しかったもののために、どのような代価を払ったことがありますか。(試験、引っ越し、技術を学ぶこと、家族の世話など、何でもかまいません。初めて来た方も話せます。)
リーダーへのヒント:気軽に話しましょう。本当に大切にしていることには、何かしらの代価が伴うと、多くの人が気づくでしょう。この問いが後の話への導入になりますが、ここではまだ信仰の話に結びつけません。
課の振り返り(リーダーが読み上げます。約1分。予習していない方のためです。)
この課ではマルコによる福音書8章31~38節を読みます。イエスは弟子たちに、人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえると教え始め、あからさまに話されました。するとペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめ始めました。イエスは振り返り、弟子たちを見ながらペテロをしかり、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。そして群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せ、自分について来たい人は、自分を捨て、自分の十字架を負い、従って来るように語られました。自分の命を救おうとする人はそれを失い、イエスと福音のために命を失う人はそれを救います。人が全世界をもうけても自分の命を損したなら、何の得にもなりません。また、人はどのような代価を払って、その命を買い戻せるでしょうか。あわせて読むルカによる福音書9章では、道で三人がイエスに従うことについて語ります。イエスは、きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子にはまくらする所がないと語られました。まず父を葬りたい、まず家族に別れを告げたいと言う人には、神の国を告げ広めるように、また、手をすきにかけてから後ろを見る人は神の国にふさわしくないと語られました。今日は、イエスに従うことの代価を一緒に考えます。
1. 31-33節を読みます。イエスはご自分にどのようなことが起こると語られましたか。ペテロは何をしましたか。
リーダーへのヒント:多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日の後によみがえります。ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめました。何と言ったかは書かれていません。32節の「あからさまに、この事を話された」に注目してください。
2. 34-35節を読みます。この言葉は誰に向けられましたか。イエスに従う三つの動きは何ですか。
リーダーへのヒント:「群衆を弟子たちと一緒に」呼び寄せて語られ、十二人だけに向けられたのではありません。三つの動きは、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスに従うことです。
3. 36-38節を読み、続いてルカ 9:57-62を読みます。36、37節はどのような話し方をしていますか。ルカ9章の三人は、それぞれ何と言いましたか。
リーダーへのヒント:36、37節は、損得を量る二つの問いです。三人のうち、一人は、どこへでも従うと言い、一人はまず父を葬りたいと言い、もう一人はまず家族に別れを告げたいと言いました。
4. ペテロの一言のいさめを、なぜイエスは「人のことを思っている」と言われたのでしょうか。
リーダーへのヒント:この課の中心となる問いなので、十分に時間を取ります。イエスが指摘されたのは向きです。十字架を避けるメシヤ像は、まさに誘惑の声でした。人のことを思って助言する時でも、相手が神のみこころを避ける手助けをしてしまうことがあるか、と尋ねてもよいでしょう。
5.(時間があれば扱う問い)ルカ9章で二人が言った「まず」は、どちらももっともらしく聞こえます。イエスの答えは共通して何を示していますか。
リーダーへのヒント:難しいのは、理由がもっともらしく聞こえることです。それぞれが置かれた状況については解釈が分かれますが、どの答えも、神の国の招きには切迫性があり、一見もっともらしい理由でいつまでも先送りできないことを示します。親孝行や家族の絆が大切でないという意味ではありません。私たちの生活で「……したら、その後で……」という言い方をする時、最初の空欄には何が入ることが多いか、話してもよいでしょう。
6. 「自分の十字架を負う」ことと、「あらゆる苦しみに耐える」ことは、どのように違いますか。
リーダーへのヒント:十字架とは、イエスに従うために伴う代価です。あらゆる苦しみが十字架なのではありません。家庭内暴力や抑圧を受けている人、受診が必要な人は、離れ、助けを求め、医師に診てもらうべきです。それは信仰が足りないことではありません。この点を明確にしてこそ、この課を安心して扱えます。
7. この箇所を読んで、生活の中でまだ主に渡したくないと思っていることが何か浮かびますか。(分野を一つ挙げるだけでかまいません。話さなくてもかまいません。初めて来た方も話せます。)
リーダーへのヒント:希望する人に一言か二言で話してもらい、ほかの人は問い詰めたり、助言したり、比較したりしません。話せない人は、まずほかの人の話を聞きます。リーダーは、神がその人に特定の決断を求めていると、本人に代わって宣言してはなりません。
8. 今週、どのような安全でふさわしい小さな行動によって、この言葉に応えたいと思いますか。
リーダーへのヒント:できるだけ具体的にします。お金をどう使うか、週末をどう過ごすか、ある言葉を口にするかどうか、などです。聖書とすでに明らかにされている責任へ戻り、特別な感動を待つ必要はありません。続く行動リストをこの答えにつなげます。
一人のメンバーにマルコ 8:34-37をゆっくり読んでもらい、皆で三分間静まります。一人ひとりが心の中で、まだ手放していないそのことを神に語ります。ほかの人に話す必要はありません。希望する人は一言か二言で祈り、分野を一つ挙げるだけでもかまいません。声に出したくない人は、静かに祈ることも祈りです。初めて来た方は静かに聞くだけでよく、祈ることも信仰の立場を表明することも求めません。最後にリーダーがまとめ、一人ひとりのために祈り、主がまず私たちのために命を与えてくださったことを感謝します。祈りの課題はグループ内にとどめます。慎重に扱うべきことはアプリにもグループチャットにも書きません。後のケアが必要な時は、まず本人の同意を得てから、必要な一、二点だけを非公開で記録します。子どもや自分を守れない人の安全、または差し迫った自傷・他害の危険が関わる時は、本人の同意を前提とせず、直ちに現地の救急、公安/警察、または適切な保護機関に連絡します。
次のように始めてもよいでしょう(祈りの方向):
主イエスよ、あなたは十字架をあからさまに語り、復活もあからさまに語られました。私たちは、あなたが与える平安は欲しくても、自分の手にあるものには触れてほしくないと、しばしば願ってしまうことを認めます。人のことではなく、神のことを思わせてください。また、この世の命を守りながら本当の命を失うなら、結局何の益にもならないこと、あなたと福音のために手放す人はあなたから命を受けることを悟らせてください。あなたがまず私たちのために命を与えてくださったので、私たち自身をあなたの御手に委ねます。あなたの御名によって祈ります。アーメン。
祈った後、一人ひとりが次の中から一つを選び、今週行います。一つで十分です。すぐに選べなくてもかまいません。
記録も報告も必要ありません。よければ、次の集まりで話すことができます。できなかった時は、妨げになったことを祈りに持って行きましょう。
「嵐の中で、私たちを導く主を知る」(マルコ 4:35-41)か、「つまずいた後も、なお立ち返らせてくださる」(ルカ 22:31-34、54-62)を選べます。