聖霊によって祈る:神の臨在と導きを経験する, 第5課. 読む ルカによる福音書 22:39-46. 長く祈っても何も変わらないと、自分の信仰が足りないと疑ったり、特定の祈り方を効き目のある公式のように考えたりする
中心聖句:ルカによる福音書 22:39-46
長く祈っても何も変わらないからといって、信仰が足りないのでも、正しい方法を見つけていないのでもありません。主イエスはゲツセマネで、この杯を取りのけてほしいと祈られました。杯は取りのけられませんでしたが、「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と語られました。私たちも願いを正直に祈り、その結果を父に委ねることを学べます。
ある兄弟は、母親の病気のために二年間祈りました。初めは確信があり、「信仰さえあれば、神は必ずいやしてくださる」と言う人もいました。しかし母親の病状は良くならず、自分を責め始めました。自分の信仰が足りないのか。何か間違ったことをしているのか。その後、毎日決まった時刻に起き、決まった言葉で宣言し、それを何日間続けるという方法を教える人もいました。そのとおりにしても病気は良くなりませんでした。彼はもう、このことを祈るのが怖くなりました。神を信じなくなったのではなく、もう一度失望するのが怖かったのです。
長く祈っても変化がない時、私たちは二つの結論に陥りやすいものです。一つは「自分の信仰が足りない」、もう一つは「まだ正しい方法を見つけていない」です。前者は重荷をすべて自分に負わせ、後者は祈りを操作の手順に変えてしまいます。正しい手順さえ踏めば、神が必ずそのとおりにしてくださるかのようです。
ルカによる福音書22章は、私たちをオリブ山へ連れて行きます。主イエスが裏切られる夜、いつものように祈るため、そこへ行かれました。
そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(ルカ 22:41-42)
「この杯」は、これから受ける苦しみです。旧約では、「杯」が罪に対する神の憤りを表すことがあります(イザヤ 51:17、エレミヤ 25:15)。主イエスは、深い悲しみを隠されませんでした。心の願いをまっすぐ父に告げ、この杯を取りのけてほしいと願われました。「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ 22:44)とあります。しかし杯は取りのけられませんでした。その夜イエスは捕らえられ、翌日、十字架につけられました。
ここで立ち止まって考える必要があります。この世で最も信仰に満ち、最も父のみこころにかなった祈りが、この祈りです。それでも杯は取りのけられませんでした。ですから、願ったとおりにならないことは、信仰が足りないという意味ではありません。ヘブル人への手紙は、キリストが「激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられた」(ヘブル 5:7)と語ります。文脈に沿う一つの理解は、父は十字架を免れさせませんでしたが、死を通らせ、死人の中から復活させられたというものです。
主イエスの祈りは、前半が真実な願い、後半が真実な委ねで、その間に「しかし」があります。この言葉は物事を私たちの望みどおりにするためのものではなく、御子の父への信頼を表します。自分の望みをあなたに告げます。しかし、私はあなたをさらに深く信頼します、という祈りです。
パウロにも似た経験がありました。彼の身には一つの「とげ」があり、それを離れ去らせてくださるよう三度も主に祈りました。しかし主はこう答えられました。
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(コリント第二 12:9)
そのとげが何だったのか、聖書は語りません。私たちも推測する必要はありません。主はとげを取り去りませんでしたが、パウロを見捨てたのでもありません。恵みは十分であり、主の力はパウロの弱さの中に現れました。
祈りが期待どおりにかなえられない時も、主イエスのように正直に願い続け、「しかし」と祈ることを学べます。パウロのように、取り去られない弱さの中で十分な恵みを受け取れます。祈りは、望みをかなえる公式ではなく、子どもが父に語りかけることです。父がなぜ願いどおりにされないのか、私たちには分からないことがよくあります。それでもキリストによって、父の知恵は私たちの見える範囲を超え、その愛は止まっていないと知っています。
1. 「いつものように」。 前の章には、イエスが「夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた」(ルカ 21:37)とあります。そこはイエスがいつも祈っておられた場所で、ユダもどこで見つけられるか知っていました。最も苦しい夜にも、イエスはいつものようにそこへ行き、いつものように祈られました。
2. 前後に二度ある「誘惑に陥らないように」。 40節と46節で、主イエスは弟子たちに二度、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と語り、その間にご自身の祈りがあります。この「誘惑」は、主の祈りの「わたしたちを試みに会わせないで」(ルカ 11:4)の「試み」と同じ語です。ご自分が最も苦しい時にも、弟子たちを心にかけておられました。
3. 「この杯」。 旧約の預言者は「憤りの杯」(イザヤ 51:17)を、罪に対する神の裁きとして語ります。主イエスが向き合ったのは肉体の痛みだけではなく、私たちに代わってこの裁きの杯を飲むことでした。取りのけてほしいと願われたのは、従うことを拒んだからではありません。重圧の中で、まことの人として願いを正直に語り、そのすぐ後に「しかし」と続けられたのです。
4. 御使と「血のしたたりのような」汗。 杯は取りのけられませんでしたが、父は御使を遣わしてイエスを「力づけ」ました(ルカ 22:43)。44節は、その汗が血のしたたりのように地に落ちたという比喩によって、深い苦しみの中での切なる祈りを描きます。医学的な「血の汗」だったかどうかを判断するよう求めている箇所ではありません。この二節は一部の古い写本にありませんが、口語訳には本文として収められています。マルコにも「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(マルコ 14:34)という言葉があります。
5. どちらも三度でした。 マタイとマルコは、主イエスがゲツセマネで三度祈り、「また離れて行って同じ言葉で祈られた」(マルコ 14:39)と記します。パウロも「三度も主に祈った」(コリント第二 12:8)と語ります。同じことを繰り返し願うのは、間違いではありません。
ウォームアップ:子どもの頃、親にねだったのに手に入らなかったものはありますか。今振り返ると、そのことをどう思いますか。(初めて来た方も話せます。)
リーダーへのヒント:一、二文で話します。評価はしません。家族についての深い痛みを話す人がいたら、話してくれたことに感謝し、詳しく尋ねないでください。
課の振り返り(リーダーが読み上げます。約1分。予習していない方のためです。)
この課では、ルカによる福音書22章39~46節を読みます。裏切られる夜、主イエスはいつものようにオリブ山へ行き、弟子たちに、誘惑に陥らないよう祈りなさいと語られました。ご自身は石を投げて届くほど離れ、ひざまずいて祈られました。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」御使がイエスを力づけ、イエスはますます切に祈り、汗が血のしたたりのように地に落ちました。一方、弟子たちは悲しみのはて眠っていました。関連する箇所はコリント人への第二の手紙12章7~10節です。パウロは、身のとげを離れ去らせてくださるよう三度祈りましたが、主は、恵みは十分であると答えられました。今日は、長く祈っても変わらない時、どう祈り続けるかを一緒に考えます。
1. ルカ 22:39-42を読みます。主イエスはどこへ祈りに行かれましたか。弟子たちに何と言われ、ご自身はどのように祈られましたか。
リーダーへのヒント:いつものようにオリブ山へ行き、弟子たちには、誘惑に陥らないよう祈りなさいと語られました。石を投げて届くほど離れ、ひざまずいて祈られました。42節を正確に読んでください。先に、この杯を取りのけてほしいという願いがあり、その後に「しかし」が続きます。
2. 43-46節を読みます。主イエスの祈りはどのように変わりましたか。弟子たちは何をしていましたか。なぜですか。
リーダーへのヒント:御使がイエスを力づけました。イエスは苦しみもだえ、ますます切に祈られました。弟子たちは「悲しみのはて寝入って」いました。同じ悲しみの中で、イエスはますます切に祈り、弟子たちは眠りました。そしてイエスは弟子たちに、もう一度、起きて祈っていなさいと語られました。
3. コリント第二 12:7-10を読みます。パウロは何を願いましたか。主はどう答えられましたか。パウロは後に自分の弱さをどう見るようになりましたか。
リーダーへのヒント:とげを離れ去らせてくださるよう三度祈りました。主は、恵みは十分であり、力は弱いところに完全に現れると答えられました。パウロはむしろ弱さを誇り、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と語りました。そのとげが何だったか、聖書は語っていないので、推測しません。
4. 主イエスは、この杯を取りのけてほしいと祈られましたが、杯は取りのけられませんでした。このことは、「願っても得られないなら、信仰が足りない」という考えに、何を教えますか。
リーダーへのヒント:この課の中心となる問いの一つなので、十分に時間を取ります。この世で最も信仰に満ち、最も父のみこころにかなった祈りでも、杯は取りのけられませんでした。ヘブル 5:7は、キリストが深い信仰のゆえに聞き入れられたと語ります。父は十字架を免れさせず、死を通らせ、死人の中から復活させられた、と理解できます。聖書には、「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(ヤコブ 4:3)ともあります。しかし、これは自分を吟味するための言葉であり、ほかの人を裁くための言葉ではありません。
5. 「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」という祈りは、ある方法を、願いをかなえるための「効き目のある公式」のように扱うことと、どう違いますか。
リーダーへのヒント:この課の中心となる問いです。公式が考えるのは、どうすれば物事を自分の望みどおりにできるかです。「しかし」は結果を父に委ねます。同時に、「しかし」と祈ることは、願うのを恐れることではありません。主イエスは先に願いをまっすぐ語り、切に祈られました。「しかし」と言ったら信仰が足りないようで怖い、と感じることはないか尋ねてもよいでしょう。
6.(時間があれば扱う問い)「わたしの恵みはあなたに対して十分である」という言葉は、長く苦しんでいる人にとって、どのような形を取るでしょうか。この言葉を人に語る時、何に気をつける必要がありますか。
リーダーへのヒント:十分な恵みは、多くの場合、一日ごとに与えられます。今日の力、そばにいる人、一つの御言葉、一度の慰めなどです。この言葉は主がパウロに語られたものなので、苦しむ本人が主から受け取ることが大切です。こちらから決まり文句のように語ると、その人の痛みを軽く扱うことになりかねません。
7. 長く祈っても、まだ変化を見ていないことがありますか。そのことによって、神や自分自身について、どのように考えるようになりましたか。
リーダーへのヒント:一言だけでもよく、話さなくてもかまいません。詳しい事情は必要ありません。一人が話し終えたら、リーダーは「話してくださって、ありがとうございます」と答え、追及も助言もしません。
8. 今週、そのことをどのように祈りたいですか。
リーダーへのヒント:ごく小さな一歩を勧めます。正直に願い続け、「しかし」と一言加えることを学ぶ。今日の力を求める。兄弟姉妹一、二人に一緒に祈ってもらい、弟子たちのように、祈っている人を一人きりにしないことなどです。この後の祈りで、それらのことを祈ります。
この課では、主イエスにならって祈ります。まず一分間静まり、一人ひとりが長く願ってきたことを一つ、父の前に持って行きます。その後、希望する人は、グループで語られたことのために一、二文で祈ります。次のように祈ってもよいでしょう。「父よ、みこころならば、どうぞ……してください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」今日必要な力を求めてもかまいません。声に出したくない人は、静かに祈ることも祈りです。初めて来た方は祈る必要がありません。最後にリーダーがまとめ、グループの人々のために感謝し、執り成します。祈りの課題はグループ内にとどめます。慎重に扱うべきことはアプリにもグループチャットにも書きません。後のケアが必要な時は、リーダーが本人の同意を得て、必要な一、二点だけを非公開で記録します。
次のように始めてもよいでしょう(祈りの方向):
父よ、長く願っても、まだ変化を見ていないことがあります。自分の信仰が足りないと責め、もっと効果のある方法を探し回り、ある時はもう願うのが怖くなりました。主イエスがゲツセマネで、私たちに先立ってこの道を歩まれたことを感謝します。心の願いをあなたに語り、ご自身をあなたの御手に委ねられました。私たちも正直に願い、「しかし」と祈れるようにしてください。重荷が取り去られない時も、あなたの恵みを十分に与え、私たちの弱さの中にあなたの力を現してください。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
祈った後、一人ひとりが次の中から一つを選び、今週行います。一つで十分です。すぐに選べなくてもかまいません。
記録も報告も必要ありません。よければ、次の集まりで話すことができます。できなかった時は、妨げになったことを祈りに持って行きましょう。
「失望せず、絶えず祈る」の課(ルカ 18:1-8)か、「神が時に、私たちのかたくなな祈りを聞き入れてくださること」の課(サムエル記上8章)を選べます。