イエスとは誰か, 第9課. 読む ヨハネによる福音書 4:1-42、1:48、2:24-25、16:30、21:15-17. 孤独と自己閉鎖。自分のことを知られるのが怖く、よく見える面だけを人に見せてしまう
中心聖句:ヨハネによる福音書 4:1-42、1:48、2:24-25、16:30、21:15-17
イエスは私たちのすべてを知りながら、自ら近づいてくださいます。すべてを知られているからこそ、私たちはもう自分を隠さなくてよいのです。そして祈りながら、身近にいる孤独な人へ自分から近づくこともできます。
私たちの世代は、スマートフォンでつながる相手がかつてないほど多い一方、本音を話せる人はほとんどいません。WeChatのモーメンツ(朋友圈)には華やかな面だけを載せ、投稿を三日間だけ表示する設定にもします。家庭の悩み、夫婦の冷戦、子どもの問題、心の抑うつについても、できるだけ話さずに済ませます。「家の恥を外にさらしてはいけない」と、私たちは幼いころから教わってきました。見下されたくない、人に噂されたくないと思い、少しずつ自分を閉じ込めていきます。それが長く続くと、人は孤独になります。
ヨハネによる福音書4章には、ひとりのサマリヤの女が登場します。彼女が水をくみに来たのは「昼の十二時ごろ」(ヨハネ 4:6)、一日のうちで最も暑い時間でした。当時、女たちはたいてい朝夕の涼しい時間に連れ立って水をくみに行ったため、多くの読者は、彼女が意図して人を避けたのではないかと推測します。ただし、これは推測にすぎず、聖書に明記されているわけではありません。真昼に水をくむことが必ずしも人を避けるためだったとも限りません。それでも、その後の会話から、彼女に複雑な結婚歴があり、その理由は記されていないことが分かります。
イエスのほうから先に声をかけられました。「水を飲ませて下さい」(ヨハネ 4:7)。彼女は驚いて言います。「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。聖書はわざわざ「ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかった」(ヨハネ 4:9)と説明しています。ユダヤ人の男性が井戸端でサマリヤ人の女性と話していたので、戻ってきた弟子たちさえ「不思議に思った」(ヨハネ 4:27)のです。
生ける水について話しておられたイエスは、突然「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」と言われました。彼女が「わたしには夫はありません」と答えると、イエスは「あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない」(ヨハネ 4:16-18)と言われました。彼女が離縁されたのか、死別したのか、それとも別の事情があったのか、聖書は何も語っていません。モーセの律法では、離縁状を書く権限は夫の側にありました(申命記 24:1)。ですから、私たちは急いで彼女を罪に定めるべきではありません。大切なのは、イエスが真実を語りながら、彼女を辱めなかったことです。そして、ご自分が何者かを示して「あなたと話をしているこのわたしが、それである」(ヨハネ 4:26)と言われました。彼女が待ち望んでいたメシヤが、今、目の前に座っておられたのです。
その後、この女は「水がめをそのままそこに置いて町に行き」(ヨハネ 4:28)、人々にこう言いました。「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」(ヨハネ 4:29)。イエスが彼女の過去を言い当てたことが、彼女の証しの始まりとなりました。町の多くの人が彼女の言葉を聞いてイエスを信じ、やがて自分たちで直接イエスの言葉を聞いて、「この人こそまことに世の救主である」(ヨハネ 4:42)と言いました。
一度話しただけで信じ、町中の人に話しに行くとは、あまりにも急な変化だと感じる人もいるでしょう。しかし、彼女の言葉を見ると、イエスに出会う前から心に望みと備えがあったことが分かります。彼女は、先祖ヤコブがこの井戸を残したことを知っていました(ヨハネ 4:12)。どこで礼拝すべきかを気にかけていました(ヨハネ 4:20)。そして、こう言って待ち望んでいました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」(ヨハネ 4:25)。ですから、イエスが彼女のすべてを言い当てられた時、すぐに「この人がキリストかも知れません」と思ったのです。彼女が町へ向かっている時、イエスは弟子たちに「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている」(ヨハネ 4:35)と言い、さらに「ひとりがまき、ひとりが刈る」(ヨハネ 4:37)と語られました。この言葉に照らせば、彼女の心には先に種をまいた人がいて、イエスが井戸端で刈り取られたことになります。だれが、いつ種をまいたのか、聖書は語っていませんから、私たちも断定する必要はありません。そして今度は彼女自身が種をまく人となり、人々は「町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った」(ヨハネ 4:30)のです。
ヨハネによる福音書には、「知っておられる」という主題が何度も現れます。イエスはナタナエルに「わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ 1:48)と言われました。聖書は、イエスが「ご自身人の心の中にあることを知っておられた」(ヨハネ 2:25)と記しています。三度イエスを知らないと言ったペテロも、最後には「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」(ヨハネ 21:17)と言うほかありませんでした。イエスはナタナエルの心も、ペテロの失敗も知っておられましたが、そのために彼らを見捨てることはありませんでした。
もう一つ心に留めたいのは、この会話を始めたのがイエスだったことです。イエスは一歩ずつ、彼女の生活で最も個人的な部分へと話を進められました。ヨハネは初めに、イエスが「サマリヤを通過しなければならなかった」(ヨハネ 4:4)と書いています。後に弟子たちが食事を勧めると、イエスは「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」(ヨハネ 4:34)と言われました。この井戸端での出会いは、父の遣わしとみこころによるものでした。これは預言者ナタンを思い起こさせます。ダビデが罪を犯して長く隠していた時、「主はナタンをダビデにつかわされた」(サムエル記下 12:1)ので、ナタンは面と向かって「あなたがその人です」(サムエル記下 12:7)と言いました。そこでダビデはようやく「わたしは主に罪をおかしました」と認め、ナタンは「主もまたあなたの罪を除かれました」(サムエル記下 12:13)と告げました。私たちにも、このような友が必要です。心から受け入れながら、私たちが隠したい所を優しく明るみに出す勇気のある友です。「愛する者が傷つけるのは、まことから」(箴言 27:6)です。主イエスこそ、そのような友です。イエスはまた、聖霊が「あらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ 16:13)と約束されました。教会でも、私たちにはそのように近しい兄弟姉妹が何人か必要です。
私たちが知られることを恐れるのは、たいてい、知られたら嫌われると思うからです。イエスは別の可能性を見せてくださいます。あなたをはっきり見通しながら、それでもそばまで来てくださる方がおられます。私たちの大祭司は「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」(ヘブル 4:15)のです。その方の前では、もう隠れる必要はありません。兄弟姉妹の間でも、少しずつ隠さずにいることを学べます。そして私たちも、だれかにとってそのような友になれます。孤独な人の多いこの時代に、まず身近な人のためによく祈り、自分からだれを気にかけるべきか考えてみましょう。
1. 「人を避けていた」というのは推測です。 「昼の十二時ごろ」(ヨハネ 4:6)というのは聖書に書かれています。彼女が意図して人を避けていたかどうかは、当時の習慣から読者が推測したことです。そのように読むことはできますが、聖書に明記されているかのように言ってはいけません。
2. 聖書は「五人の夫」がどのような経緯だったかを語っていません。 離縁されたのか、死別したのか、それとも別の事情があったのか、何も書かれていません。モーセの律法では、離縁状を書く権限は夫の側にありました(申命記 24:1)。イエスが真実を語られたのは、彼女に生ける水を与えるためであって、罪に定めるためではありませんでした(ヨハネ 4:10-14)。
3. 彼女の心には、すでに望みがありました。 一般に、サマリヤ人はモーセ五書を権威あるものとし、モーセのような預言者を待ち望んでいたと考えられています。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう」(申命記 18:15)。これはユダヤ人のメシヤ待望と重なる部分があっても、まったく同じではありません。背景を断定しすぎないほうがよいでしょう。彼女自身の言葉だけでも十分にはっきりしています。「そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」(ヨハネ 4:25)。
4. まく人と刈る人。 「わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた」(ヨハネ 4:38)という言葉は、弟子たちに向けられました。この出来事には後日談があります。ピリポがサマリヤの町へ行ってキリストを宣べ伝え、「サマリヤの人々が、神の言を受け入れた」(使徒行伝 8:14)のです。種をまく人が刈入れを見るとは限りません。聖書は「まく者も刈る者も、共々に喜ぶ」(ヨハネ 4:36)と語っています。
5. 「知っておられる」という主題が、ヨハネによる福音書全体を貫いています。 ナタナエル(ヨハネ 1:48)、群衆(ヨハネ 2:24-25)、弟子たち(ヨハネ 16:30)、ペテロ(ヨハネ 21:15-17)。人は知ると、しばしばそれを噂にし、相手を見下します。イエスは知った上で、私たちを捜し、回復するために来られます。ペテロが三度イエスを知らないと言ったことを、イエスはすべて知っておられました。それでも三度「わたしを愛するか」と尋ね、「わたしの羊を養いなさい」(ヨハネ 21:17)と託されました。
初めに一言(リーダーが読み上げます。)
今日のテーマは個人的な内容を含みます。ここで聞いたことはここにとどめ、外では話しません。ただし、例外があります。現在進行中の被害、子どもや弱い立場の人の安全、自分や他人を今すぐ傷つける危険がある場合、リーダーは完全な秘密を約束できません。通常、リーダーはまず、できる限り本人と相談し、実際に助けられる人に必要な情報だけを伝えます。子どもや自分を守れない人が関わる場合、または差し迫った危険がある場合は、同意を得ることを前提にせず、状況に応じて牧師、資格のある専門職、現地の公安・警察、救急・医療機関へ連絡します。差し迫った危険がある時はその場で助けを求め、本人を一人にしません。
ウォームアップ:WeChat(または普段使うチャットアプリ)に友だちは何人くらいいますか。そのうち、夜中でも電話して本音を話せる人は何人いますか。(数字だけでかまいません。)
リーダーへのヒント:気軽に進め、人数について評価しません。二つの数字を並べると、今日のテーマが自然に見えてきます。
課の振り返り(リーダーが読み上げます。約1分。予習していない方のためです。)
今日読むのはヨハネによる福音書4章です。ひとりのサマリヤの女が真昼に水をくみに来ると、イエスは井戸のそばに座り、自分から彼女に水を求められました。ユダヤ人とサマリヤ人は交際していなかったので、彼女は驚きました。イエスは生ける水について話し、彼女に五人の夫があり、今一緒にいる人も夫ではないことを言い当てられました。イエスは彼女のすべてを知りながら辱めず、ご自分が彼女の待ち望んでいたメシヤだと告げられました。その後、彼女は水がめを置いて町へ行き、「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい」と人々に話しました。その時、イエスは弟子たちに、畑はもう刈入れを待っていると言われました。今日は、イエスに完全に知られているとはどういうことかを一緒に考えます。
1. 4:6-9を読みます。イエスがこの女に水を求めたことには、当時どのような異例な点がありましたか。
リーダーへのヒント:聖書から探してもらいます。真昼、サマリヤ人、女性、「ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかった」、そして戻った弟子たちさえ「不思議に思った」(4:27)ことです。まず、イエスが民族、男女、評判という幾つもの壁を越えられたことに目を向けます。
2. 4:16-19、28-29を読みます。イエスが彼女の過去を語った後、彼女の反応はどのように変わりましたか。
リーダーへのヒント:初めに「わたしには夫はありません」と正直に答えました。イエスが彼女の経験を言い当てられると、イエスを預言者と呼び、礼拝する場所について尋ねました(4:19-20)。その後、水がめを置いて町へ行き、人々に証ししました。聖書はこれらの変化を記していますが、彼女が話をそらしたとも、避けたとも書いていません。彼女に代わって結論を出さないでください。
3. 4:39-42を読みます。町の人々がイエスを信じたきっかけは、初めは何でしたか。その後は、何がきっかけになりましたか。
リーダーへのヒント:初めは女の証しのため(39節)、後には「自分自身で親しく聞いて」(42節)信じました。初めて来た方もここから話せます。人から聞いたことと、自分で聞き、確かめることには、どのような違いがあるでしょうか。
4. イエスは彼女のすべてを知っておられました。それなのに、彼女はなぜさらに遠くへ逃げず、町中の人に話しに行ったのでしょうか。
リーダーへのヒント:この課の中心となる問いなので、十分に時間を取ります。彼女はすべてを見抜かれましたが、辱められず、見捨てられませんでした。イエスは真実を語ると同時に、生ける水を与えられました(4:10-14)。ヨハネはイエスが「めぐみとまこととに満ちていた」(1:14)と語ります。この二つは一緒に示されています。
5.(時間があれば扱う問い)4:35-38を読みます。イエスは「ひとりがまき、ひとりが刈る」と言われました。彼女の言葉(4:12、20、25)を見ると、イエスに出会う前から、心にどのような望みや備えがありましたか。
リーダーへのヒント:彼女が「たちまち信じた」と片づけないでください。彼女の言葉から、神がすでに彼女を備えておられたことが分かります。これは私たちへの励ましです。種をまく人が刈入れを見るとは限りません。変化があまりにも劇的ではないかと言う人がいれば、この問いを使って答えられます。
6. ヨハネによる福音書で「知っておられる」と書かれている箇所を一緒に読みます。1:48(ナタナエル)、2:24-25、21:15-17(ペテロ)。イエスが「私たちを知る」ことと、人が「私たちを知る」ことには、どのような違いがありますか。
リーダーへのヒント:人は知ると、しばしばそれを噂にし、相手を見下します。イエスは知った上で、私たちを捜し、回復するために来られます。ペテロが三度イエスを知らないと言ったことを、イエスはすべて知っておられました。それでも三度「わたしを愛するか」と尋ね、「わたしの羊を養いなさい」と託されました。
7. あなたの人生に、心から受け入れながら真実を語ってくれる兄弟姉妹が一人か二人いますか。まだいないなら、今週どのように始められるでしょうか。
リーダーへのヒント:受け入れられることを学ぶ問いです。このような友情は一度の会話ではできず、時間をかけて育てるものです。まず祈ることも、このグループから始めることもできます。ここで聞いたことは、外へ持ち出しません。
8. この孤独な社会で、あなたの身近に、自分から近づいてくれる人を必要としている人はいませんか。ずっと「何を言っても無駄」と思っていた人も、実は心の「畑はもう刈入れを待っている」かもしれません。今週、その人たちのためによく祈り、自分からだれを気にかけるべきか考えてみませんか。
リーダーへのヒント:人を気にかけることを学びます。行動する前にまず祈ります。イエスが井戸へ行かれたのは、「わたしをつかわされたかたのみこころを行い」(4:34)なさるためでした。ナタンは「主はナタンをダビデにつかわされた」のでダビデのもとへ行きましたが、彼は預言者でした。その特別な遣わしをそのまま自分に当てはめることはできません。心に促しを感じたら、それが聖書、祈り、成熟した兄弟姉妹の確かめを通して妥当かどうかを見分けます。それは他人の私生活を問い詰める許可ではありません。近づく時には、まず話してもよいか相手に尋ね、望まないなら尊重します。語る時は「柔和な心」で、同時に自分自身も省みます(ガラテヤ 6:1)。聞いたことは一言も外へ漏らしません。家庭内暴力、依存、自ら命を絶ちたいという思いなどが関わる場合は、自分だけで「明るみに出そう」とせず、牧師や専門職にも一緒に関わってもらいます。
まず一、二分静かにし、それぞれが人に最も知られたくないことを心の中で神に話します。声に出す必要はありません。それから互いのために祈ります。孤独な人、話し出す勇気のない人のために、またこのグループが安心できる場となるように祈ります。最後に、それぞれ普段よく顔を合わせる人を一人か二人思い浮かべ、その人のために祈り、自分からだれを気にかけるべきか聖霊に示していただきます。声に出したくない方は、黙って祈ってもかまいません。それも祈りです。初めて来た方は静かに聞いているだけでよく、祈ったり、自分の立場を表明したりする必要はまったくありません。祈りの課題はグループの中にとどめます。個人的で慎重に扱うべきことはアプリに書かず、グループチャットにも投稿しません。通常のフォローアップは本人の同意を得てから行い、必要な一、二文だけを個別に記録します。子どもや自分を守れない人の安全に関わる場合、または自分や他人を今すぐ傷つける危険がある場合は、同意を得ることを前提にせず、直ちに現地の救急、公安・警察、または適切な保護機関へ連絡します。
このように祈り始めてもよいでしょう(祈りの方向):
主イエスよ、あなたは私たちのすべてをご存じです。私たちが隠していることさえ、すべて知っておられます。それでも私たちをはっきり見て、自らそばへ来てくださることを感謝します。自分で築いた壁の後ろに隠れ続けない勇気をお与えください。だれが孤独で、だれが私たちの近づくのを必要としているか、聖霊によって示してください。私たちを、その人のそばにいる友として遣わしてください。まずあなたに祈り、それから声をかけ、その人が託してくれた言葉を守らせてください。このグループを、互いに安心して真実を語れる場としてください。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
祈った後、次の中から一つ選び、今週実行します。一つだけで十分です。すぐに選べなくてもかまいません。
記録も報告も必要ありません。よければ、次の集まりで話せます。できなかった時は、何が妨げになったかを祈りの中に持っていきましょう。
「良い羊飼い」の課(ヨハネ 10章)を選べます。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており」と語られます。また、「弟子たちの友」の課(ヨハネ 15章)も選べます。